気まぐれ古墳地図『HaniwaProject 古墳の中心でアイを叫ぶ』

テーマ "No KOFUN , No Life !!"。 訪れた関東の「古墳」を中心に、遺跡や博物館をご案内するブログです。 「何月に行くと、どんな風景なのか」を知ってもらいたくて、写真多めの記事を作っています。

テーマ "No KOFUN , No Life !!"。
訪れた関東の「古墳」を中心に、遺跡や博物館をご案内するブログです。
「何月に行くと、どんな風景なのか」を知ってもらいたくて、写真多めの記事を作っています。
姉妹ブログがあります。
【 HaniwaProject 古墳カレンダー 】
http://kofuncalendar-haniwaproject.blog.jp/
古墳をテーマにしたカレンダーを月1で公開するブログ
【HaniwaProject 埴輪王国通信】
http://haniwaokoku.blog.jp/
過去に別のブログで投稿していた記事を移植

【山田高塚古墳 推古天皇磯長山田陵】

【山田高塚古墳 推古天皇磯長山田陵】

ヤマダタカツカ コフン スイコテンノウ シナガヤマダミササギ
7世紀前半
方墳(長方形墳?) 

墳丘長 南北約58m・東西約59 / 三段築成

※三段目 南北約25m・東西約33m 長方形

主体部:横穴式石室の可能性 /

埴輪:なし / 葺石:なし /

 

●大阪府南河内郡太子町山田3320-2

 

●墳丘南側 二段目上面テラスの石材(東石、西石)

・両石材間の距離は約3.5

・石質:花崗岩

・二段目テラスには他に2個の花崗岩の石材が確認されている。

・石材は東石室、西石室それぞれの石材の可能性が高い

・『山陵』(大正十四年刊行)では、石室の中に石棺が2つ並び、右は推古天皇、左は竹田皇子であることを記している。東石室と西石室のどちらなのか。

 

●貼石

・長さ40cm・高さ25cm・奥行25cm

・三段目東側斜面において、樹木の根起きによって貼石の存在を発見

・石質:花崗岩

・大型墳への貼石は、7世紀前半までは硬質な花崗岩主体、7世紀後半頃から軟質の凝灰岩主体となることが確認されている。

・「文久修陵図」には貼石が表現されていない事から、貼石は墳丘築造当時のものである可能性が高い。

 

●ヒトリゴト

推古天皇・竹田皇子合葬陵墓に治定されている古墳です。
墳丘規模について、様々な数値が出ていまして、そこから導き出された墳形は「方墳」?「長方形墳」?、それとも1段・2段目は正方形、3段目が長方形とみるべきなのでしょうか。素人には非常に悩ましい問題です。
今回は、福尾正彦氏の報告を参考にさせていただきました。

 

<参考文献>

・福尾正彦 1991 「推古天皇陵の墳丘調査」『書陵部紀要』第42

・横田真吾 2021 「平成30年度 推古天皇 磯長山田陵台風被害木処理工事に伴う立会」『書陵部紀要』第72号陵墓篇 

・太子町・太子町教育委員会 2018 『国指定史跡二子塚古墳保存活用計画』

 

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

OS 太子)二子塚古墳20220501-1

OS 太子)二子塚古墳20220501-2

OS 太子)二子塚古墳20220501-3

OS 太子)二子塚古墳20220501-4

OS 太子)二子塚古墳20220501-5

OS 太子)二子塚古墳20220501-6

OS 太子)二子塚古墳20220501-7

OS 太子)二子塚古墳20220501-8

OS 太子)二子塚古墳20220503-1

OS 太子)二子塚古墳20220503-2



【金崎古墳群 天神塚古墳】

【天神塚古墳】

テンジンヅカ コフン /  6世紀後半 / 円墳 /

径約13m・高さ約2.0 /

周堀:あり / 幅約2mで巡る

主体部:横穴式石室 / 南西方向に開口

埴輪:あり / 葺石:あり /

 

●埼玉県秩父郡皆野町金崎111-1

 

●金崎古墳群

・大堺4号墳、氷雨塚とも呼ばれる

 

1990年の周堀トレンチ調査により、墳丘復元径は約15.6mと推察される。

●主体部

・短冊形の横穴式石室

・石材は結晶片岩

・全長約7.6m、玄室長約5.4m、玄室幅1.2m、玄室高さ約1.7

 奥壁幅約1.2m、玄門幅約0.9m、羨道長約2.2m、羨道幅約0.85

・奥壁:結晶片岩2

・側壁:結晶片岩の互目(ごもく)積み、奥壁の横目地に合わせて、二段階で構築

・棺床面:片岩の割石が敷き詰められていたと推測

・天井石:結晶片岩8

・羨道・羨門:天井部、上部が破壊されている

・前庭部:片岩の割石と円礫が敷き詰められていた。

●副葬品

・大正年間に青年団により発掘され大刀5振が見つかっている。

 4振りは倒卵形鐔(鍔)

 1振りは六窓鐔(鍔)、銀象嵌の鎺(ハバキ)

 

・その他、大刀1点が伝承されている。

●埴輪片

・前庭部から円筒埴輪片、人物埴輪の一部が見つかっている

●築造時期

・石室が胴張りに先行する短冊形

・円筒埴輪片

↓↓

6世紀第3四半世紀

 

●ヒトリゴト

金崎古墳群内では唯一石室の奥まで入っていける古墳です。

互目積みの側壁も見所でしょうが、天井石のキレイさにうっとりしてしまいました。

 

<参考文献>

・『現地看板』

・塩野博 2004 『埼玉の古墳 比企・秩父』 さきたま出版会

・皆野町 1988 『皆野町誌 通史編』

 

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町サムネ1

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-3

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-4

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-5

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-6

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-8
天井石
写真右端に写っているのが、奥壁

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-9
棺床
現在は土が見えてしまっていますが、
本来は、割石が覆っていたと言われています。

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-10

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-11
金崎神社
古墳の裏手というか、古墳が神社境内というべきか

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-12
別々の場所にあった神社を合祀したのが金崎神社のようです。
気になるのは、国造 知知夫彦命、知知夫姫命の塚がこの近くにあるような記載
どの塚がそういう伝承を持っているのでしょう。

S 皆野)金崎古墳群天神塚古墳20210223埼玉県皆野町-7


【真名板薬師堂】


●銅造伝薬師如来立像

・両手の手首から先がなく「手なし薬師」と呼ばれる。

・鎌倉時代後期の作とされ、像高約94

・薬師堂近くの板石塔婆(「建治元年(1275)」銘)と同時期の可能性

 

●棟板

・武蔵国﨑玉群真名板村花蔵院

 『新編武蔵風土記稿』には花蔵院は埼玉県熊谷市上之の新義真言宗智山派一乗院末寺である事が記されている

薬師堂は花蔵院が中心となって資金を集め建立したのだろうか?

 

・延宝七未より天和弐年まで四年の建立なり

 延宝7年(1679)~天和2年(1682

 「貞享二乙丑星三月八日」という記載もある。これは薬師堂建立後の上棟式の日付?

 

●花蔵院

・明治初期に廃寺

・現存するのは薬師堂と楼門のみ

 

<参考文献>

・『現地看板』

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

S 行田)真名板高山古墳20191026サムネ2

S 行田)真名板高山古墳20191026-2

S 行田)真名板高山古墳20191026-3

S 行田)真名板高山古墳20191026-4

S 行田)真名板高山古墳20191026-5

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-1

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-2

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-5

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-56

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-3

S 行田)真名板高山古墳20191026-2-4
「建治元年乙亥九月」銘
高さ3.51m、幅0.87m、厚さ0.137m


【高山古墳(真名板高山古墳)】

タカヤマ コフン(マナイタ タカヤマ コフン) /  6世紀後半 / 前方後円墳 /

墳丘長約104m(現状) / 後円部径約40m以上(復原案)・高さ約6.0 /前方部幅約52.0m・高さ約7.3 /

主軸:前方部が南西方向 / 2段築成 /

周堀:不明 /

主体部:不明 /

埴輪:あり / 葺石:なし /

 

●埼玉県行田市大字真名板字堂裏1536ほか

 

●立地

・根川の分流である小河川によって形成された自然堤防上に立地

・かつて周辺にも古墳が立地したと言われているが、詳細は不明

 

行田市史の記載

・全長約90.5m、後円部高さ7.3m、前方部高さ5.4

・後円部に浅間社の石祠

・「長の長さに比して幅員は甚だしく狭く後世多量の封土を除去したことが一見して認められる」

 

『県内主要古墳の調査()』の記載

・浅間社の石祠があるのは前方部頂上

・「前方部を北西に向けた前方後円墳である」としているが、前方部は南西向き。

 

墳丘の変形要因

・かつて寺院が所在しており、その時に括れ部付近が掘削されたとされる。

・墳丘北側は河川の護岸工事による土取りとされている。

 

●ヒトリゴト

前方部以外は原形を留めていないのではないかと思ってしまう真名板高山古墳。

高山古墳の所在地は羽生市にも近く、関東造盆地運動の影響を受けている地域でもあります。現在、全長104mとされていますが、実は、造盆地運動と利根川の氾濫による埋没の結果、墳丘の3m分は地下に埋まった状態であるという報告が出ています。本当に埋もれてしまっているとしたら、墳丘規模は約127m程になるそうです。

埼玉古墳群から4kmの位置、6世紀後半に埼玉二子山古墳に次ぐ規模の古墳が造られたという事実があったとしたら、非常にワクワクしてしまいますね。

発掘調査は未実施ですので、詳細は不明のままですが、せめて、地中レーダー探査と詳細な測量を実施して頂き、見えていない部分をしるヒントが少しでも得られるとうれしいです。

 

※見学の際は冬場をお勧めします。蚊の数が多く、常に10匹ほどを相手する事となります。

 

<参考文献>

・『現地看板』

・埼玉県立さきたま資料館学芸課 1988 「県内主要古墳の調査(Ⅰ) 行田市高山古墳、白山古墳及び花園町黒田古墳群の測量調査」『調査研究報告』第1号 

 

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

S 行田)真名板高山古墳20200620サムネ1

S 行田)真名板高山古墳20210704-1
木が生えていない部分が前方部の南側隅角


S 行田)真名板高山古墳20210704-3

S 行田)真名板高山古墳20210704-4
墳丘北東部分である後円部先端
S 行田)真名板高山古墳20200620-2
後円部側から墳丘へ

S 行田)真名板高山古墳20200620-3
後円部頂上
前方部へ向かっています。

S 行田)真名板高山古墳20200620-4
前方部頂上

S 行田)真名板高山古墳20200620-6
前方部頂上から後円部方向

S 行田)真名板高山古墳20210704-5

S 行田)真名板高山古墳20210704-6

S 行田)真名板高山古墳20210704-8
前方部南側隅角

S 行田)真名板高山古墳20210704-9
前方部北隅角からみた北側側面
S 行田)真名板高山古墳20210704-10
新しめの杭が打たれていました。

S 行田)真名板高山古墳20210704-11

S 行田)真名板高山古墳20210704-12

S 行田)真名板高山古墳20200620-1
北側から見た後円部。写真外ですが、前方部は右方向
樹木で墳丘はわかりませんが・・・

S 行田)真名板高山古墳20210704-2


【赤城塚古墳】

【赤城塚古墳】

アカギツカ コフン / 4世紀~5世紀 / 円墳 / 径約32m・高さ約3.5 /

主体部:不明 /

 

板倉町006(『群馬県古墳総覧』) / 西谷田村1(『上毛古墳総覧』) /

群馬県邑楽郡板倉町大字西丘字赤城塚1554ほか

 

●現在、古墳の北側を渡良瀬川が流れている。しかし、古墳が造られた当時の渡良瀬川は古墳の南側が流路であったとされている。

赤城塚古墳は栃木県三毳山(みかもやま)方面まで力が及んでいた人物の墓の可能性がある。

 

●三角縁仏獣鏡

・直径22.08cm

・主紋帯に3体の仏像が表現されている。

3世紀に魏で製作。

1676(延宝四)年、赤城神社(現 西丘神社)再建修理時、農夫によって発見

・霊鏡として「鏡陵皇太神」として西岡、西岡新田の鎮護神とされた。

1857(安政四)、三角縁仏獣鏡が発見された経緯を「鏡陵皇太神碑」として建立

 

●三角縁仏獣鏡のほか、劔、直刀の破片も見つかっている

 

●ヒトリゴト

現地の墳丘は変形しており、正確な形がわからなくなっています。

墳丘が直径32mであるとすると、墳丘南裾から32mの距離は、社殿の南側となります。

社殿の土台部分に繋がる土橋状の部分も墳丘の範囲になりそうです。

直径32mの墳丘であれば、高さも現在よりも高かったでしょうから、墳丘上部の盛土をつかって、土橋や社殿の土台部分の盛土を造ったのかな?という勝手な想像をしてしまいます。

出土品は、神社再建時に出土したそうですが、最初の社殿は古墳上にあったのでしょうか?

現在、発見例が非常に少ない三角縁仏獣鏡が、なぜ円墳から出土したのか、この鏡は国内でどれ位の所有者がいたのだろうか。

謎が多く残る古墳ですね。

 

<参考文献>

・現地説明看板

・群馬県教育委員会 2017『群馬県古墳総覧』

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

手振れが酷い動画です。ご了承下さい。

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015サムネ1jpg

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-1

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-2

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-3

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-4

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-5

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-6

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-7
天保3年(1832年)

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-8

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-9

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-10

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-11

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-12

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-13

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-14
『鏡陵皇太神碑』

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-15

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-16

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-17

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-18

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-19

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-25
北は上方向。十字部分は社殿(墳丘は社殿の南隣)
こう見ると崩れた前方後円墳とか円墳2基に見えなくもないですね。

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-20
古墳の西側(北に向かって撮影)

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-21
古墳の北側には渡良瀬川の堤防が見えます。
写真ではわかりにくいですが・・・

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-23

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-24

G 板倉)赤城塚古墳・西丘神社202105015-22

【亀山古墳】

【亀山古墳】

カメヤマ コフン / 5世紀後半 / 前方後円墳の可能性 /

後円部約35/ 周堀あり

主体部:竪穴系と推察 /

葺石:あり / 埴輪:あり /

太田007(『群馬県古墳総覧』) / 鳥之郷村002(『上毛古墳総覧』) /

所在地:群馬県太田市鳥山上町1509 

 

●現在は菅原神社となっている。

 

●以前、太田市教育委員会HPに亀山古墳についての記載があった(現在非公開)

・墳丘長58m、後円部径31m・高さ9m、二段築成

・前方部は北西方向

・鶴山古墳の後継者の可能性

 

●上遺跡発掘調査により亀山古墳の周堀が確認された

・調査期間2015(平成27)年12

・推定東山道駅路牛堀・矢ノ原ルートの検出

・推定東山道の遺構(幅13m)から7世紀後半の土器が出土

・亀山古墳の北脇を駅路が通っていたことが判明

・亀山古墳の周堀に関する詳細は不明

 亀山古墳は全長約80mとする見解が出されている(『文化財だより 平成27年度NO.14』)

  全長が墳丘長なのか周堀まで含めた総長なのかは不明

 

 
【ヒトリゴト】
今回は、円墳なのか前方後円墳なのか謎だらけの亀山古墳です。
隣接地の発掘調査によって古墳の周堀が見つかり、前方後円墳の可能性が濃厚となったようです。
しかし、墳丘調査はなされていませんので、全貌はまだまだ見えてきませんね。
太田市の鶴山古墳の後継者という見解があるようです。葺石、埴輪が見つからなかった鶴山古墳と葺石、埴輪両方が確認されているが、規模は小さい亀山古墳。
両者の関係は・・・

注目ポイントはもう一つ。
亀山古墳に接する位置に東山道(推定)が通っていた様です。土器の型式は7世紀後半の様ですが、5世紀代から何かしらの道が完成していた可能性はあるのではないでしょうか。
重要な道のそばに古墳が造られたというストーリーを描いてみたくなりますね。

それではまた次回も宜しくお願い致します。
Have a nice KOFUN !!


<参考文献>

・群馬県教育委員会 2017『群馬県古墳総覧』 

・太田市 1996 『太田市史 通史編 原始古代』

・太田市教育委員会 2010 『太田市の古墳』

・太田市教育委員会 2016 『文化財だより 平成27年度NO.14

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/bunkazaidayorino14.pdf

 

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

G 太田)亀山古墳20190406サムネ1

G 太田)亀山古墳20190406-1
北側から撮影(推定東山道の位置)

G 太田)亀山古墳20190406-2
手前の高まりが前方部?

G 太田)亀山古墳20190406-3
前方部らしきものの側面
だいぶ変形している

G 太田)亀山古墳20190406-4
墳丘南側には菅原神社

G 太田)亀山古墳20190406-5

G 太田)亀山古墳20190406-6
社殿建設時に墳丘掘削か?

G 太田)亀山古墳20190406-7
後円部(?)東側

G 太田)亀山古墳20190406-8
後円部東側裾

G 太田)亀山古墳20190406-10
後円部、前方部の東側面

G 太田)亀山古墳20190406-11
後円部頂上

G 太田)亀山古墳20190406-13
頂上から南東方向を眺める

G 太田)亀山古墳20190406-9

G 太田)亀山古墳20190406-12

G 太田)亀山古墳20190406-14

G 太田)亀山古墳20190406-15

【 森将軍塚古墳の周辺 】

【森将軍塚古墳の小円墳群】

5世紀から7世紀にかけて円墳がつくられる。

現在確認されているのは13

 

2号墳】

・径約20

5世紀初頭に築造

・小円墳群の中では最初に造られたものと考えられる。

・墳頂部に組合式箱形石棺1基(男女2体が葬られていた)

・墳裾には円筒埴輪、朝顔形埴輪が約1m間隔で巡っていた

・須恵器、土師器も出土

 

3号墳】

・円墳

・直径約6

・横穴式石室(長さ約4.6m、幅約1m、高さ約1m)

6世紀後半から7世紀にかけて3度の埋葬が行われている

・馬具、鏃、ガラス小玉などが出土

3号墳の近くから5世紀初めの須恵器(直径1m、高さ1.2m)が出土

 大阪府堺市付近で生産された初期の須恵器

 
【ヒトリゴト】
今回は、森将軍塚古墳の周辺に造られた円墳群についてです。
最初に造られたとされる2号墳は5世紀初頭とされ、森将軍塚古墳が造られて時間が経過している時期です。この後、200年かけて墓域として採用されるようですので、森将軍塚古墳の被葬者が残した影響力の大きさを想像してしまいますね。

それではまた次回も宜しくお願い致します。
Have a nice KOFUN !!


<参考文献>

・現地案内板

・石野博信、岩崎卓也、河上邦彦、白石太一郎 編 1990

『古墳時代の研究 第11巻 地域の古墳Ⅱ東日本』

・近藤義郎 1992 『前方後円墳集成中部編』 山川出版社

・千曲市森将軍塚古墳館 2005(改訂) 『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

【前回もご案内した動画】


NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-サムネ1

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-01
2号墳

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-02

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-03

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-04

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-05

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-06

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-07

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-08

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-09
森将軍塚古墳側から2号墳への眺め
傾斜が伝わると嬉しい

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-10
3号墳

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-11

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-19

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-12
12号墳と森将軍塚古墳

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-13

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-14


【おまけ写真 麓から2号墳への道】

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-14
千曲市森将軍塚古墳館から見上げた森将軍塚古墳

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-15
道は2種類 ↑↓

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-16
シャトルバスが通る道
早朝散歩をしておられる方もいる

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-17

NN 千曲)森将軍塚古墳周辺202003-18
不慣れな人には風景よりも身の安全最優先の道の先に2号墳がある


























【 森将軍塚古墳 】

【森将軍塚古墳】

モリショウグンツカ コフン / 4世紀中葉(4世紀末とも言われている) / 前方後円墳 /

墳丘長約100/ 後円部径約45m・高さ約10/前方部幅約30m・高さ約4/

主軸:(前方部南西方向) /

主体部:竪穴式石室 / 後円部 /

埴輪:あり / 葺石:あり /

 

●長野県千曲市屋代

 

●立地

有明山の尾根上に立地。標高約490m、平地との比高差約130

地形が狭い尾根であるため、後円部が「く」字形に変形

 

●後円部頂上の主体部

・二重の石垣で囲まれた土壙(長さ15m・幅9.3m)

・竪穴式石室(長さ7.6m・幅2m・深さ2.3m)

・墳頂から石室の底までの深さは約3.5

・石室床面は「U字形」に窪んでおり、木棺が設置されていた可能性がある。

 棺の痕跡は残っておらず、詳細は不明

・床面には玉砂利を敷く

・壁面は板状石英閃緑岩を持ち送りで構築。

 壁面にベンガラを塗り、棺まわりには朱をまく

・副葬品

 複数回の盗掘により、副葬品はほぼ不明。

 三角縁神獣鏡(中国製)の破片、ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、鉄製鏃、鉄製剣、鉄製刀の破片などが残っていた

 近畿地方の特徴が見られる小型丸底鉢

 

●前方部上の埋葬施設(2基)

2号石室

 長さ1.8m・幅0.65m・深さ0.45

 盗掘され、副葬品不明

 

3号石室

 長さ3.5m・幅1m・深さ0.6

 40歳代男性の骨、歯

 両手首にガラス玉、管玉の腕飾り

 鉄製剣

2基の石室は尾根の岩盤が浅い南側に造られている事から、墳丘構築時から計画されていた可能性も考えられる。

 

●墳丘構築

後円部

尾根の整形

中段部に石英斑岩を石垣状に積み上げて区画をつくり、盛土(1回目)を行う。

1回目の盛土の上に、2回目の盛土を行い、後円部頂上部をつくる。

墳裾部分に石英斑岩を石垣状に積み上げてから盛土を行う。この盛土によって、1回目の盛土の時の中段部石垣が埋められる。

斜面に石英斑岩の葺石を施す。

 

前方部

後円部と同様、墳裾に石垣を構築し、盛土(1回目)を行う。

1回目の盛土の上に2回目の盛土を行う。

 

墳頂部に玉砂利(千曲川から採取)を敷き詰める

 

古墳を完成させる為に、延べ55,000人、500日を要したとの試算

 

●埴輪

・壺形埴輪、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、合子形埴輪など約200個が墳丘上に並べられていた。

・現在判明しているのは4器種27種類

・善光寺平埴輪

「突帯」部分を粘土紐で貼り付けず、胴体部分と一緒に形成する技法

・埴輪の表面に「黒斑」がみられる事から、野焼きのものである事がわかる

 

●埴輪棺

4世紀末から5世紀代の埴輪棺12基が前方部や墳裾で見つかっている

 

●組合式箱式石棺

64基が墳丘を囲むような位置で見つかっている

 

●ヒトリゴト

古墳を紹介するメディアで頻繁に登場する有名スポットの一つですので、今更の説明は不要かも知れませんね。

墳丘の写真はよく目にしますが、立地に関しては、実際に訪れて驚く部分も多いと思います。

あまりにも狭い尾根に何故これほどの構造物を造ったのか。造らなければならない理由を考えない方が無理、という場所に立地しているのです。

狭い立地で石材を巧みに利用し、後円部まで屈曲させた姿をみると、ここ以外考えられない、という執念しか感じませんでした。

立地の意義については、もっと広い視点で考えなければならないのかもしれませんね。

 

<参考文献>

・現地案内板

・石野博信、岩崎卓也、河上邦彦、白石太一郎 編 1990

『古墳時代の研究 第11巻 地域の古墳Ⅱ東日本』

・近藤義郎 1992 『前方後円墳集成中部編』 山川出版社

・千曲市森将軍塚古墳館 2005(改訂) 『千曲市森将軍塚古墳館ガイドブック』

 

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。




NN 千曲)森将軍塚古墳202003-サムネ2

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-1
墳丘東側

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-3
北側面(手前 後円部)

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-4

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-5

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-17

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-6

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-7
2号石室

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-8
3号石室

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-9
後円部から前方部を眺める

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-11
後円部

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-10
二重土壙と竪穴式石室

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-12
後円部先端(墳丘東側)

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-13
後円部先端(墳丘東側)

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-14
後円部先端(墳丘東側)と朝日

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-15
4号埴輪棺

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-16
4号埴輪棺

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-18
千曲市森将軍塚古墳館

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-19

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-20
盗掘穴と同じ所から石室内を覗く

NN 千曲)森将軍塚古墳202003-21
丘陵の上の墳丘を見上げる

【珠城山古墳群2号墳・3号墳】

珠城山2号墳

タマキヤマ 2ゴウフン /  6世紀 / 前方後円墳 /

全長約85 / 主軸:東西(前方部西方向) /

主体部:不明

埴輪:不明 / 葺石:不明 /

 

●奈良県桜井市大字穴師字玉井

 

●珠城山古墳群内では最大規模

現地案内板では全長約75mと表記

 

●前方部西側で小竪穴式石室の報告あり(詳細不明)

 

1号墳に先行すると推測

 

 

珠城山3号墳

タマキヤマ 3ゴウフン /  6世紀後半 / 前方後円墳 /

全長約50 / 主軸:東西(前方部東側) /

主体部(後円部):横穴式石室 / 両袖式 / 開口部:南 /

/ 全長:9.76 / 羨道:幅約1.1  / 玄室:長さ約4.66m・幅2.14m・高さ約3.1 /

組合せ式箱式石棺 2

 

主体部(前方部):横穴式石室 / 片袖式 / 開口部:南 /

/ 全長:8.7 / 羨道:幅約1.2  / 玄室:長さ約4.42m・幅2.1m・高さ約2.5 /

 

埴輪:あり / 葺石:不明 /

 

●奈良県桜井市大字穴師字玉井

 

●墳丘2/3以上が消滅。前方部東側が残存

 

●石室(後円部)

・玄室:奥壁、側壁3段積み

  1号墳よりも大きい石材を積み上げているのが特徴

・調査時、天井石は既に無し

・組合せ式箱式石棺 2

・副葬品、出土品

 心葉形双鳳文透彫杏葉、心葉形唐草文透彫鏡板などの馬具

 鉄刀、鉄鏃、挂甲小札など

 須恵器、土師器、常滑焼壺片など

 円筒埴輪片、巫女形埴輪

 

●石室(前方部)

・約6段積み

 後円部の石室よりも小型の石材を使用

1号墳に近い印象を受ける。前方部の方が後円部石室に先行か?

・木棺の可能性

・副葬品、出土品

 金環、鉄釘

 須恵器、土師器など

 円筒埴輪片

 瓦器片

 

●埴輪列

・前方部東側前面(2号墳前方部との間)にて出土

・埴輪列の中には盾持ち人埴輪も確認された

 

 

●ヒトリゴト

2回にわけてご案内した珠城山古墳群いかがでしたでしょうか?

石室が残る1号墳、墳形は綺麗に残るが主体部は未発見の2号墳、前方部の一部だけが残る3号、色々な形で残されている古墳を見ることができる古墳群です。

 

<参考文献>

・現地説明看板

・桜井市文化財協会 2010『桜井の横穴式石室を訪ねて』(2020年改訂)

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。

【↓前回の投稿でもご紹介した動画です↓】


NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231サムネ1

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-1
2号墳後円部東側

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-2
後円部頂上

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-3
括れ部・前方部

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-4
前方部頂上

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-5
前方部頂上

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-6
前方部からみた後円部

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-7
北側側縁

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-8
後円部

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-9
前方部隅角付近からみる北側面

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-10
前方部前面
奥に箸墓古墳

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-11
前方部斜面に気になる石材発見

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-12
何だか石室に使えそうな石材
前方部にあったとされる小石室の石材の一部でしょうか?

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-13

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-14

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-15
2号墳南側面

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-16
2号墳前方部の西隣に3号墳

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-17
3号墳からみた2号墳

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-18
珠城山古墳群西側にある垂仁天皇纒向珠城宮跡
奥に渋谷向山古墳が見える

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-19
珠城山古墳群遠景

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-20
3世紀末から4世紀初頭の導水施設がみつかった遺跡

NR 桜井)珠城山古墳群2号墳20201231-21


【珠城山古墳群1号墳】

珠城山1号墳

タマキヤマ 1ゴウフン /  6世紀中葉 / 前方後円墳 /

全長約50 / 主軸:東西(前方部東方向) /

主体部:横穴式石室 片袖式 / 開口部:南 /

全長:4.3m以上 羨道:長さ不明・幅0.95  / 玄室:長さ3.4m・奥壁幅1.65m・玄門付近幅1.45m・高さ1.9m /

組合せ式箱式石棺

埴輪:あり 葺石:不明 /

 

●奈良県桜井市大字穴師字玉井

 

●石室

・玄室:奥壁89段積み、側壁67段積み、玄門部3段積み

  小型の石材を積み上げているのが特徴

・土取りの際に開口

 

●石棺

・組合せ式箱式石棺

・石材:凝灰岩

 

●副葬品、出土品

・挂甲小札、三葉環頭大刀、金銅製馬具、金銅製装飾品など多数

・須恵器、土師器

・円筒埴輪

・瓦器、墨書土器、承和通宝

 平安時代に石室再利用か?



<参考文献>

・現地説明看板

・桜井市文化財協会 2010『桜井の横穴式石室を訪ねて』(2020年改訂)

 

(クリックで地図が開きます)
<ご注意>
古墳がメインですが、他の時代の遺跡等も表示しています。
おおまかな位置取りですが、お散歩のお役に立てると幸いです。
残念ながら周辺の古墳を網羅しておりません。
また、スマホ版で地図をクリックすると関東全域が表示される場合がございます。



NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231サムネ2

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-1

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-4

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-5

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-2
古墳群南側

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-3
古墳群北側広場

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-24
1号墳北側
(左)前方部 (右)後円部

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-6
(右)後円部

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-7

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-8
1号墳南側面

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-9
前方部から見る箸墓古墳

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-25
前方部からみる渋谷向山古墳(景行天皇陵)

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-11
後円部西側

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-12
後円部頂上

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-10
1号墳の西側には2号墳後円部

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-13

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-14

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-15

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-17

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-16

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-22

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-21

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-18

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-19

NR 桜井)珠城山古墳群1号墳20201231-20


このページのトップヘ